畳の歴史
縄文時代から弥生時代にかけて
農耕民族だった日本人の祖先が生活の周囲にあった稲わらなどを利用し、 快適な住まいを作るために生活の知恵を発揮してきたことは想像に難くありません。 縄文時代から弥生時代にかけての遺跡発掘調査では、住居に稲わらを敷き詰めていた形跡が発見されています。
古事記にも登場しています
古事記の中に、菅畳、皮畳の記述があります。 日本書紀に「八重席薦(やえむしろこも)」の記載があります。 たたみという言葉は、こもとか絹とか萱を「たたむ」というところから生まれました。 貴族は何枚も重ねて敷いていたそうです。
奈良・平安時代は畳で序列化
工匠としての畳技術者が出現していたようです。 貴族は畳、庶民はムシロ・コモが一般化しました。 寝殿造りとともに普及し、最初は板敷きの間に座具や寝具などとして所々に配置されていました。 さらに身分の上下や年齢の長幼など、人間関係を象徴するものに畳が使われるようになりました。 平安時代の法令集「延喜式えんぎしき」には、身分によって畳の中身の薦こもの枚数が決められていたとあります。 大事なお客さんかどうかは、畳の布ふち、へりで表しました。色や模様も身分によって決まっていました。
ちなみに、現在の厚みのある畳は、東大寺の正倉院にある、奈良時代の聖武天皇、光明皇后の使用した「御床畳」がルーツと言われています。
文化や気候、風土がつくる建築様式
西洋の家は縦に2階、3階と上へ伸びています。 階級も上下で表していたようです。日本の家屋は水平、つまり横に広がっていきます。 平面的な造作やしかけで身分や敬意、公共やプライベートを分けているのです。 なるべくどの部屋にも自然の光が入るよう、中庭を造ったり、箱庭を造ったりしています。 湿気がこもらないように、台風にも強いようにと、日本の風土にあった様々な工夫がなされています。 なお、畳は、河川の氾濫の際に緊急に洪水を防ぐものとしてや、戦いの際の防弾用としても使われていたという記述があります。
廻り畳から敷き詰めへ
鎌倉時代になると、いつも座る場所が決まっていたのでそこだけいつも畳が敷かれるようになりました。 「まわり敷」といいます。畳の廻り、つまり横の部分も見えるので横も綺麗にするということです。 全部敷き詰められると表しか見えなくなりますね。
始めは客をもてなす座具や寝具として持ち運ばれて使われていた畳ですが、鎌倉時代の終わり頃になると一部の貴族の邸宅では、 部屋全体に畳が敷き詰められた様子が描かれており、畳が徐々に建物の床材の一部となり始めたことを示しています。
室町時代の半ば頃に小部屋割りが行なわれ、畳の敷き詰めは定着し、書院造りも生まれました。 畳の縁の文様により、その畳に座る人の身分を示す規定が、平安時代よりも一層厳密に定められてきたようです。
安土桃山時代以降、城郭や城下町の整備などの流行で各都市に畳屋町が作られ、 また、茶道の隆盛で畳の様式化、定法化が進みました。 畳縁は、畳の角が折れないよう保護するためのものというだけでなく、 茶道においては貴人畳、客畳、点前畳、踏込み畳など、一畳一畳畳縁で使い分けをしていました。
江戸時代には書院造に茶室の技法を取り入れた数寄屋造りの普及により、 建築モジュール化で畳が重要視されました。
元禄時代、徳川幕府には畳奉行が出現しています。
江戸時代末期には、商家など庶民の家でも畳の敷き詰めが普及し、需要が大幅に高まりました。 各藩の特産物として畳床が登場したのもこの頃です。
現代、そしてこれから
一般の民家で、間取り構成上、床の間付き6畳や8畳間の座敷造作が一般化し始めました。 文明開化によって明治時代から畳の上に椅子などが持ち込まれ、文化住宅化、和洋折衷住宅が定着していきます。 産業革命により、人口の都市集中が始まり住宅の需要が増して畳も大衆化されます。 昭和の半ば以降は団地やニュータウンの登場、住宅建設ラッシュ、中高層マンション時代の到来などで、畳の需要もどんどんと高まっていきます。 畳縫着機などの開発や畳技能士などの資格付けなども行なわれるようになりました。
平成に入り、超高層マンションなど、和室の少ない間取り構成の住戸が増え、環境や健康の点からも「畳の良さ見直し」が盛んになっています。 畳は今、住む人の観点からも、造る人の観点からも、あらたな時代を迎えていると言ってもいいでしょう。